ビセンテ・アミーゴ リサイタル

 ビセンテ・アミーゴのリサイタルに行ってきました。(於:すみだトリフォニーホール 3/16)
 ギターの専門的なことは分かりません。でも、現代のフラメンコを肌で感じることのできた素晴らしいひとときでした。そういう感覚が持てたことを素直に嬉しくおもいます。

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 さりげなく登場したビセンテは、すっとソロの演奏に入る。少し顔を上向きかげんにして目を閉じ、何かを瞑想するようにギターを奏でる姿。写真でよく目にした表情のビセンテが、現実にそこにいる。流れるようなアルぺジオ。その音の立ち上がり方が素晴らしい。ひとつひとつの音の粒が立体的で、その連なりがさらに豊かで奥深い音楽のフレーズとなる。音は空気を振動させて届くものだが、彼の紡ぐ音は明らかに充実した質量を伴っていて、耳と皮膚に心地よい圧力を掛けてくる。甘くシックなその音色は、ビロードの布に包まれたような暖かさと艶やかな手触りさえ感じさせる。しだいに熱が入ってくると、骨太な音色が姿を現し、パーカッションまでもが聴こえてくるようだった。一本のギターが奏でる奇跡のような多彩な表現の中に、あっというまに引き込まれていた。

「アリガトウ」。1曲目が終わり、少しはにかんだ表情でそう挨拶したビセンテの笑顔はチャーミングだった。
 2曲目にカンテ、ギター、カホン、ドラムが加わり、3曲目にはさらにベースが加わる。
 CDでは、ビセンテはスタイリッシュで繊細なアーティストだと感じていたが、録音では、きれいな上澄みの音しか拾っていないということを実感する。当然そういう面も持っているが、それは彼の表現力のほんの一部でしかない。骨太の音楽性が軸にある。
 6名のアーティストによるセッションは一体感がありながら、自由度も高い。その瞬間ごとの理想の音楽をイメージの中で共有し、それを生み出すためにそれぞれが自分の仕事を的確に行っている。誰かの音楽を聴いてから音を発するのでは、当然遅れが出てしまうだろう。フレーズの先を読んで、それぞれが能動的に(自発的)に音楽を創っていくことで、ひとつの流れのあるフラメンコが生まれる。
 アントニオ・フェルナンデスのギターは、陽気にビセンテを盛り上げる。ドラムは心憎いほどのタイミングで鳴り、カホンは軽やな、かつ深い響きの連打で旋律の流れを促す。カンテのラファエル・ウセロは伸びやかな高音を持ちながらも、決して主役にはならず、抑制された声でギターを引き立てている姿が好ましい。ベースのユアン・マニュエルは冷静に支えている感じだった。そして揃ったパルマの乾いた音は、遠くのさざなみのように鳴り続け、しだいにトランス状態になるような心地を覚えた。
 6人の男性によるフラメンコは力強く、全身を覆うように響いてくる。その感覚は官能的ですらあって、ゾクゾクする。
 バイラオーラが出演する予定だったのが、急遽キャンセルになったと聞いたが、それが却って良かったようにおもう。フラメンコを聴覚と皮膚感覚のみで感じ取り、そこにただ身を任せて漂う気分を味わえたからだ。

 アンコールはまさかの2回。最後は観客のほぼ全員がスタンディング・オベーションという熱気の渦となった。フラメンコのリサイタルでもなかなかみられない光景だ。それほど、ムイ・フラメンコの人たちが集まっていた一夜だった。

 もう20年以上も前に、『DE MI CORZON AL AIRE』をカセットテープで初めて聴いたときは、遠いスペインの、違う次元にいる大ベテランのアーティストといった存在だった。その後ずいぶん経ってから、パセオの記事などで意外にも同世代だと知った。そして今、日本にやってきた彼が、目の前でより深い音楽を創り上げている。タイムスリップしたような不思議な気分にくらくらしながら、ああフラメンコの方が時代を超えて来たのだ、と実感している。

 改めてビセンテのCDを聴く。不思議なことに音楽がこれまでと違って聞こえてくる。ライブで(遠く客席からとはいえ)その人に生で触れた体験によって、CDの音から、実際にこの目で見たテクニックの素晴らしさとともに、その人柄が立ち上ってくるのだ。あの手から紡ぎだされた音なのだと、懐かしいような親しみを持って聴き入ってしまう。
 この先また来日することがあるだろうか。あれば必ず再会したい。しかし、それが実現するかどうかは分からない。だとすればこの一夜は、究極の一期一会だったということだ。


(g)ビセンテ・アミーゴ/アントニオ・フェルナンデス
(per)パトリシオ・カマラ・アロンソ/フランシスコ・ゴンザレス
(vo)ラファエル・ウセロ
(b)ユアン・マニュエル