ゴヤ展

 ゴヤ展に行ってきた。

 絵画は本物に触れなければその真価は分からないものだが、
 ゴヤの絵は、とくにそれを実感した。

 今回の目玉となっている「着衣のマハ」の生々しさは、
 印刷物などでは、絶対伝わってこない。
 そしてこの絵は、距離を置いて鑑賞するだけのものではない、
 ということも分かった。

「マハ」の全身は、正確なバランスでは描かれていない、ということはよく言われることだ。
 しかし、この絵は、単に部屋を飾るだけのものではなかったのだと感じた。

 向かって右の方から、ぐっと近くに寄って、細部を眺めていく。
 まず印象的なのは、目だ。画集などで見ていたときは、「挑戦的な」という形容が頭に浮かんだものだったが、ちょっと違っていた。左右が若干離れた、焦点の合わないような視線だ。その黒い瞳は潤んでいる。相手を見つめているというより、自分自身の視野の中に、愛人が存在していることの充足感を湛えている。
コラール・ピンクで彩られた口元は、口角が小さく上がっていて、妖艶というよりは、可愛らしい。
 両手を後ろに組むことで、豊かな胸が強調されるのだが、これも誇示しているのではなく、とろりとした質感で横に流れる乳房を、目の前にいる人に自分を差し出しているというような優しさを感じる。
 ウエストのくびれのラインはサッシュによって深い曲線を描く。細いけれど、あくまで柔らかだ。その曲線はきれいなS字を描きながら腰へと続いていく。
 下半身は、着衣にもかかわらず、薄いしなやかな布地の光沢によって女性特有の形を露わにしながら、一筆書きしたようなラインで、足先まで続くのだ。
 足の指先は、華奢な靴に飾られながらも、神経が行き届き、キュッと力が入ってつま先が伸ばされている。

 この絵は、距離を置いて眺めるものではなく、描かれたその女性を、近くで舐めるようにみて愛でるために、描かれたものではないだろうか。
 
「マハ」に限らず、ゴヤの絵画の実物に触れて感じたことは、ゴヤは、絵を描くという手法によって、対象を決して美化しないということ。善いもの悪いもの、そして美しいもの、醜いもの、その人物の本性を見抜いて、私たちに提示してくる。
 その意図に気付いたとき、それらの絵はまるで内視鏡のように、私自身が覆い隠そうとしていた内面までをも映し出し始め、戦慄さえ覚える。そして、それでも直視せずにはいられない。

 ゴヤは、首席宮廷画家という最高の地位を手に入れる前にも後にも、決して、自己批判と社会批判の精神を忘れることはなかった。

『戦争の惨禍』の連作には、処刑、拷問、殺戮の残酷な事実が見たままに描かれていて、それは人間の愚かさを浮かび上がらせる。しかし、扇情的な場面だけに留まらず、母を亡くした子供の姿なども捉えている。人間のまっとうな視点を常に留めていたのだろう。

『ロス・カプリーチョス』には、街角にたたずむ娼婦も描かれている。彼女らの側で世話をしたり、見守っていたりする老女たちは、取り持ち人である。先日観た小島章司さんのフラメンコ・リサイタル『ラ・セレスティーナ』の世界がそこにはあった。社会の底辺にある不条理な世界にも、人間としての信頼関係はある。
 
 その一方で、司祭や修道士らの呆けた表情をも捉える。

『我が子を喰らうサトゥルヌス』(この絵は今回は来ていないが)などの残酷な絵を描いたゴヤのことを、私は、どこか狂信的な思想を持つ画家だと勘違いしていた。
 現実社会から、人間に内在する本当の美醜を見抜いて抽出し、私たちに描いてみせた、哲学を持つ芸術家だったと知った。