「貰い下手」

 「貰い下手」というタイトルが付けられた吉行淳之介さんの随筆があった。
 小学校1年生のとき、家に来た客から五十銭銀貨を貰ったので、すぐ近くの玩具屋に飛んで行って、野球ゲームセットを買ったのを、祖母に物凄い勢いで怒鳴って叱られたという。祖母が叱ったのは全額あっさり使ったことに対してなのだが、以来金銭について敏感になり「貰い下手」になったそうだ。あまり辞退しすぎることは、せっかくの好意に対してためらいを持つことで、相手の気持に負担を与えることになり、長年この癖が抜けなかったことで引き起こしてしまった失敗について、書かれていた。
 
 これを読んで、まったく反対の反応をしてしまう自分のことを考えた。
 ずいぶん昔、母が私に話してくれたことがある。ある年配の女性が家に来たとき、幼い私にお土産を持ってきてくれたことがあった。私は飛びっきりの笑顔で
「おばちゃん、ありがとう」
 と、いった。これは当然の礼儀だろう。そして私はその人に会うたびにお礼をいったそうだ。
「おばちゃん、昨日はありがとう」
「おばちゃん、一昨日はありがとう」
「おばちゃん、この前はありがとう」
 何度もお礼を言われちゃうので、またお土産を持っていかなきゃならなくなった、とその女性は可笑しそうに、そう母にいったらしい。

 こういった記憶は無かった。母の脚色も多少入っているだろう。けれど、いかにも私はそういう風にいいそうだなと想像できて、笑ってしまった。
 
 自分に向けられた好意を私は本当に有り難く思う。何かを私にくれた人がいたとすると、その物の価値よりも、その人が私のことを思い出してくれたこと(それがたまたまついでのように浮かんだのだとしても)、それを選ぶのに使った時間と労力、気に入ってくれるだろうかという渡すまでの不安、そういった行為の奥に含まれているものすべてを想像したら、嬉しい気持ちや申し訳ない気持ちでいっぱいになって、感謝せずにはいられない。本当のところ相手はそこまで思っていないかも知れない。けれどそういった好意が少しでもあるとしたら、それを汲み取り損ないたくない。ましてや無にすることは出来ない。もしかすると、大げさだと受け取られているかも知れない。思い過ごしだと笑われるかも知れない。もっと毅然とした対応ができないものか、と思わないでもない。軽率で浅ましくみられているとしたら、吉行淳之介さんとは逆の意味で「貰い下手」といえるだろう。実際そういうところが大いにあることも自覚はしている。
 それでもやっぱり素直に喜んで笑顔を共有できた方がずっと楽しい。単純のままで私はいい。