『冬の旅』の憂いと歓び

シューベルト:歌曲集「冬の旅」

シューベルト:歌曲集「冬の旅」

 ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの『冬の旅』を久しぶりに聴いている。昨年の5月に亡くなって、もう半年以上も過ぎてしまった。同じ月に吉田秀和氏も亡くなっている。ドイツ・リートという深くて素晴らしい芸術を若い世代があまり聴かなくなったことを嘆くディースカウとの会話の想い出を吉田さんが随筆に綴られていた。その情景を思い浮かべてみる。けれど同じ想像をしても、お二人がこの世に生きていた頃とは全く違う感情が湧いてくる。ディースカウの歌声を聴いていてもそれは同じだ。同時代に生きていると認識しているときに聴く感傷、亡くなった直後に聴いたときの喪失感、そして今心の底から湧き上がって来る哀しみ。学生のころから聴き続けていたので、その折々の心象風景も思いだされる。大切な人を失って時間が経つとともにその記憶が鮮明になってくる、という言葉を最近読んだ。それは何に書かれていたのだろうか。
 
 ディースカウの声の美しさは正統派のそれだと思う。知的で抑制された深さがある。往々にして真に美しいものはその欠点の無さゆえに、耳を傾けていても跡を残すことなく流れて行ってしまう。けれど失ってみて改めてその得難い偉大さに気付かされる。その類稀なる美声の背後にある思考、鍛錬、そして人生に思いを馳せ、その高い美意識に改めて畏れを抱く。

 自分の未熟さを思い知る。しかしこれから齢を重ねていくにつれて、ディースカウの歌うシューベルトの世界に共鳴していくことが出来るのではないかという予感もある。それは同じく死に一歩ずつ近づきながら少しずつ何かを理解していくという憂いを帯びた歓びである。