大沼由紀舞踊公演「杢」(moku)感想

大沼由紀舞踊公演「杢」(moku)
11月2日(土)昼公演 渋谷「アップリンク・ファクトリー
【踊り】大沼由紀【フルート/楽曲提供】小林豊美【アルトサックス】東金城友洋【ピアノ】津嘉山梢【パーカッション】朱雀はるな【歌】西容子【ギター・ホルン・アナログシンセ】山内裕之【ギター】俵英三

この公演に「フラメンコ」という言葉は見当たらない。
無国籍な空間だった。

フルートはひらひらとはしゃぎながら時おり神経質な悲鳴を上げる。
アルトサックスは何も頓着しない顔をして
ぶっきらぼうな地声でつぶやき続けている。
ピアノが不協和音で不安を煽る。

時おり互いに、挑発する、というよりももっと軽い感じでちょっかいを出しながら相手の反応を試す。そしてシニカルな笑顔を露骨に向けては、たいした執着もせずに自分の世界に引きこもっていく。

会話ですらない、全く噛み合わない話をそれぞれが吐き出しながら、その場に集っているという事実のみで孤独を解消しているような殺伐とした音楽。

そのかろうじて音楽となっているような雑然とした音の中で、大沼さんは、心を通わさないで済むことが却って気楽なのだといったような無関心な顔で、絡むか絡まないかという距離を他者との間に置き、自らの踊りに独り入り込んでいく。

フラメンコの衣裳も髪型も化粧も皆無だ。さっぱりとした素顔、ウエーブのまま肩にたらした髪、肌に馴染んだオレンジ色のコットンブラウスと柔らかなデニムパンツを無造作に着こなしている。長いチェーンを引き摺っている。シャラシャラと無機質な音が響く。その先には赤いサパトスが絡みついていた。「フラメンコの抑圧」という言葉がふいに浮かぶ。そこから自由になりたかったのだろうか。

大沼さんの踊りにはかろうじてフラメンコが滲んでいる。西容子さんのカンテはよく通るけれどどこか醒めたような痛みがある。俵英三さんのフラメンコギターだけが赤い血を通わせていた。けれど三位一体などはどこにもない。熱い想いはこの場ではただ浮いてしまうだけだ。心の叫びなど誰にも届かない。

45分間のライブ。といって集中した感覚は無く、トリップした心地で無為に過ごした時間に不安になる。それが孤独を深める。会場を出たところで大沼さんが観客たちと談笑していた。清々しい笑顔。孤独の不安を持つことだって生きてるってことでしょう? とさらりとかわされてしまいそうだ。心の奥にあった混沌としたものをこのライブをやることで取り出すことが出来たのかも知れない。取り出したところで解決はしない。けれどそれを可視化できる。それによって少しだけ先が見えてくる。そんなすっきりとした表情であった。混沌は可能性の宝庫ともいえるのだと思う。

帰ってから私は、ベートーベンやブラームスを無性に聴きたくなった。聴かずにはいられなかった。自分の軸を、拠り所となっているものの頼もしさを確かめずにはいられなかった。それは若い頃、最初にそして長く親しんで来たドイツ系のクラシックだ。そして良くも悪くもこれが核にあるから様々なアートの形を楽しむことが出来るのだと自覚しないではいられなかった。

そこでふと気付いた。大沼さんも逆説的に、フラメンコから離れた混沌の極みに行ってしまうことで、自身の中の拠り所であるフラメンコの大きさを確かめようとしているのではないだろうか。その不動性を再確認したくてあえて離れてみているのではないだろうか。

以前、大沼さんが踊った大地のようなソレアは忘れることが出来ない。あの時の踊り以上にアイレを深めていくために、今は幅が必要なのかも知れない。

かつてジャズピアノと舞踏にアートの気質を育まれて来た大沼さんは、フラメンコという産道を通過して、混沌の世界に生まれ直したともいえる。この先の深化は未知数でありながらも成長は原点を知ることでもある。大沼さんは豊かな通過点にいる。