森田志保 短編映画『GRAVITACIÓN』とライブパフォーマンス 初日

森田志保 短編映画『GRAVITACIÓN』とライブパフォーマンス 初日
(2月1日(土) セルバンテス文化センター東京)

刺激的なパフォーマンスだった。
忘備録担当ではないけれど、脳細胞が覚醒しっぱなしなので、
徒然にメモ。

映像の舞台はカナリア諸島ランサローテという火山島。
得体の知れないエネルギーを秘めた荒涼とした大地に、
森田志保さんが佇む。
小さな生命体。けれどそれは、
広大な大地と対等に引き合う熱い命の塊。
血の通った生命そのものの存在が、地球上における美しい宝石であると
いえるのではないか。
思想を反映した、流れるように美しい衣裳を身にまとって踊る森田さんの姿が
そう物語っていた。

荒野に無造作に置かれた黒い箱。
箱というよりは枠と言った方がいいかも知れない。
森田さんはそこに出たり入ったり、座り込んだりしている。
その空間は「抑圧」に見えた。
人を縛り付けるもの、囲い込んでしまうもの。
それは半分正解であった。
その枠は守ってくれるものでもあった。
コンフォタブルな空間であり、住まいという側面もある。
通りぬけていくものであり、窓でもある。
それはレセプションの時に、監督撮影の高木由利子さんや、
森田志保さんから直接聞いたことだった。
束縛と安心は常に表裏なのだということを思い出した。
そしてその箱の上で「脱皮」する。
それは次の段階へと登り、解放されたということなのかという問いに対して、
森田さんは、行き詰りながらそこに到達し、到達したと思ったら、
またそこでぶつかる、生きることはその繰り返しなのだと思う、
そんな風に答えられた。

ライブでのパフォーマンスは
内観し、自らの精神にぐっと入り込んでいくような
奥深いコンテンポラリーフラメンコであった。
楽器はギターではなく、
斎藤徹氏率いる3人の奏者によるコントラバスのみ。
その低い雄叫びのような連打は、
儀式で使う打楽器のように、
官能的にはらわたへと響いてくる。
それは鼓動であり胎動の音でもあった。
意識を内側へ内側へと引きずり込んでいく。
太古の原始的な感覚が呼び起されていく。
コントラバスという異ジャンルの楽器でありながら、
フラメンコの本質そのものを掴んでいた。
だから空中分解しない。
そしてこのライブのために帰国した今枝友加さんのカンテが、
このフラメンコに重厚さを与えていた。
重みがありながらもひときわよく通る声。
以前よりもさらに研ぎ澄まされた、
骨太なアイレが宿っていた。

素晴らしいフラメンコだった。
独断も偏見も排他性もない。
歌、踊り、音楽、それぞれが
寛容の精神でクロスオーバーしながら、
そこからフラメンコの美学を磨き続けてきた
懐の深いアルテがあった。

西洋音楽には楽譜があるけれど、
フラメンコという民族音楽には楽譜が無い。
その場の雰囲気から生まれて来る自由な音楽の世界を
目指していってみたい」

レセプションでそのように挨拶されていた、
コントラバス斎藤徹氏に、
今回は楽譜にしたのですか、と聞いてみた。

「出来る限り楽譜にしています。
でもその場から生まれるものを創ってみたい。
それぞれが内面に深く入っていって、
突き抜けた先で、人びととつながれるような」

そう答えられた。
グレン・グールドのピアノみたいだな、と思った。

鼓動や胎動を感じたことを伝えたら、
それは意識していた、とおっしゃっていた。

伝統の遺伝子を持ちながら生まれ変わっていくフラメンコを感じた。