森田志保 短編映画『GRAVITACIÓN』とライブパフォーマンス 二日目

 森田志保 短編映画『GRAVITACIÓN』とライブパフォーマンス 二日目
(2月2日(日) セルバンテス文化センター東京)
 
 森田志保さんの映像とライブパフォーマンス、二日目の昼公演も観に行った。昨日一回観るだけでも凄い体験だと思った。ただ未消化な部分が多すぎた。未消化のままの不思議な余韻を味わうのも悪くはないものだが、この公演については、その奥に在るものをもっと解りたいと思った。先鋭的なアーティストたちの感性が絡み合い、様々に仕掛けられたエピソードが脳内を通り過ぎる体験は素晴らしく刺激的だったか、それだけに目が捉われてしまい、もっと深いものがあるのを見落としているのではないか、というような引っ掛かりがあった。そして2回目はどっぷりと浸って観たのだった。

 地球のエネルギーを秘めた荒涼とした大地と、その地上にあるからこそ浮かび上がる人間の熱い生命力の美しさは、高木由利子さんによる感度の高い短編映画から存分に伝わって来た。だからこそストレートに、そしてシンプルに伝わって来たのは、上映後に行われたライブの、今そこに在る肉体から放たれる音楽と舞踊の素晴らしさだった。

 とりわけ、3本のコントラバスの、鼓動とも胎動とも感じられる低い響きを、私は再び感じてみたかったのだということに気付いたのだった。それは重く空気を震わせて全身の肌を響かせた。その迫力ある重い音楽は耳に流れてくるというよりも、大きな包容力で聴く者を包んでくれるのだ。官能的といってもいいような深い安心感があった。どっしりとしたベース音を創り出す打楽器としての力強さを湛える一方で、弦をこすって出すうめき声のような音は人間的な生々しさをも感じさせる。また楽器を床に横たえた状態で2本の弓を使って無機質な音を出すといった前衛的な奏法には驚かされた。森田志保さんの踊りの中で、コントラバス奏者の手を縛って、音楽を止めさせようとする演劇的なパフォーマンスもあった。音楽が鳴る限り踊らなければならない。そんな選ばれたアーティストとしての苦行から解放されてみたいという悲願が込められていた。それでも音楽は鳴り続け、赤い靴を履いてしまった少女のように、踊り手は踊り続けていくしかない。前衛的な演出の中に描かれていたのはあくまでも人間であった。そして「楽譜のある西洋音楽ではなく、人間同士の関わり合いという楽譜のないところから生まれて来る民族音楽を目指したい」ということを語っていた斎藤徹氏の音楽は、いかに奔放に見えようとも、ロマのルーツを熟知し、フラメンコに寄り添うものだった。映像にも音楽にも舞踊にも、その精神が通底していることで結びついていたのだった。『GRAVITACIÓN』の深淵が少しだけ見えたような気がした。

 そして、このライブのために帰国した今枝友加さんのカンテが、この舞台にいっそうの深みをもたらしていた。昨日よりもさらに強くそれを感じた。日本人離れした声の伸びやかさ、そして気迫。二年前、スペインに渡る前に行われたライブの時よりもはるかに深化しているのが解った。歌詞の意味を真摯に解釈しているのが、丁寧な言葉の発し方から伝わって来た。そして無伴奏での歌からはフラメンコの旋律に対する彼女の敬意が伝わって来た。見事な音楽だった。スペインでの研鑽は生半可なものでは無かったはずだ。それは技術的なものだけにはとどまらない。東北の震災の後、彼女は様々な葛藤を抱えて、幼い息子さんと共にスペインにいく決心をした。それはフラメンコという枠を超え、人としてどう生きるかという模索だったと思う。例えば、子供の未来を考えない行動は親のエゴと言われるが、考えての行動も、しょせん親のエゴなのではないか、親となれば、そのような葛藤はずっと付きまとうものだ。それでもそんな悩みの中で選択を繰り返し、もがきながら必死で生きて行くしかない。そんな覚悟と信念が今枝さんの歌声には滲んでいた。その真剣な生き方が、今枝さんの鉄火肌の精神をさらに強くし、その姿勢でフラメンコにも向き合って来たことが、技術的な進化にもつながっていったのではないか。

 最後に歌われた曲が特に印象に残っている。コントラバス3本に囲まれ、気迫に満ちた短調のベース音に駆り立てられるように、けれど決して引けを取らない、それどころか、逆に彼らを力強く率いていくように歌い切った劇的なフラメンコだった。私はビバルディ四季の『冬』の鮮烈な哀しみを思い出していた。あまりに感情を動かされたので、終演後、ロビーで大勢の人に挨拶をされていた今枝さんに、原曲について伺った。エストレージャ・モレンテの最新アルバムの中の一曲『LE DI A LA CAZA ALCANCE』をもとにした曲であることを、丁寧に曲名まで書いて教えてくださった。そして今枝さんはさりげなく言った。
「500年前から存在した詩なんです」
私は耳を疑うほど驚いてしまった。500年継承されてフラメンコとなった唄だったとは。その瞬間、時代の前衛と結びついてもビクともしない、常に伝統と革命を呑み込みながら生き残って来たフラメンコのアイレが鮮やかに心に広がっていくのを感じていた。