フラメンコする理由

(引用)
哲学書が難しいと言われる根本の理由は、哲学が ”私” ”人間” ”世界”を俯瞰することを拒否したところで思索しているからなのではないかと私は思う。
 哲学者はそれらが俯瞰できない対象だからこそ思索する。それゆえ、思索に費やしたプロセス全体しか、”答え”にならない。」
「人間が人間として心の底から知りたいと思うことは、すべて外から見ることができない。つまりその外に自分が立って論じることができない。それを知ることが哲学の出発点」
保坂和志著「書きあぐねている人のための小説入門」中公文庫66ページ)

 
 かねてから、フラメンコは、観るよりも、実際やる人の方が断然多いのは、なぜだろうと思っていたが、この文章を読んだとき、これがひとつの答えではないか、と目からうろこが落ちたような心地がした。
 もちろん、これは芸術全般にいえることだろう。私自身、子供のころに習ったピアノを始めとして、フラメンコ、バレエ、声楽と、自分で体験せずにいられなかったのは、単に好きだという気持ちだけでは収まらず、やはりそこに踏み込んでいきたいという欲求があったからだ。
 その中でも、フラメンコという芸術は、特別その傾向が強いように思われる。それは、この芸術が、様式上や技術上の美しさを超えた、人間らしさ、さらにいえば、汚いものも含めた人間臭さこそに価値を見出しているからだと思う。そして、それは当然、万人共通のものではない。
 素晴らしいフラメンコのアルティスタと出会って感銘を受ける。それを追及したいと感じたとき、客観的な研究や俯瞰という外側からのものでは、とても理解に及ばない。なぜなら、人間としての生き方が核にあるからだ。それを知るために、私たちは自らフラメンコをやる。そのプロセスの中に、自分の生きるプロセスを投影する。そこには、目を背けたくなる自分もいる。まずそれを認めなくてはならない。そこから抜け出そうともがき苦しむ中に、フラメンコの芸術を知る鍵があるのだと思う。そしてそれは、決して「答え」という終着点ではない。
 「プロセス全体しか、”答え”にならない」ということは、つまり、死ぬまで続いていくということだから。

 さあ、この気付きをこの先いかにつなげていくかに、私自身のフラメンコが問われるのだ。