セザンヌ展『青い花瓶』

 セザンヌの『青い花瓶』と出会ったのは小学校4年生のころでした。(もちろん印刷です)
 3年生のころはまだ幼く記憶があいまいで、5年生ならもっとしっかり覚えているはずなのでやっぱり4年生だったと思う。
 
 父親が私たち姉妹(弟はまだ幼かった)を何かの美術展に連れて行ってくれたことがあった。帰りがけにそこのミュージアムショップで、小さな名画が掛かっている15センチほどのミニチュアのイーゼルを買ってくれた。いくつか種類があって、マネの『笛を吹く少年』やルノワールの女性像などがあったのを覚えている。
 
 私はその中から青い花瓶の絵を選んだ。カードくらいの大きさの絵の裏に「セザンヌ青い花瓶』」とあり、その作品と画家の名前を知った。すっきりとした直線の構図と透明感のある青色、そして求心的に描かれた赤い花の生命力に惹かれた。

 眺めているうちにどうも花瓶が傾いて描かれていることに気付く。そういった引っ掛かりはさらに視線を引き付けるものだ。その絵のなぞなぞを解こうとするような心境で幾度となく絵を凝視した。もちろんその当時そのような言葉で意識したわけではないけれど確実にそういうイメージがあったことを覚えている。
 
 先日、国立新美術館で開催されていたセザンヌ展で、初めて本物の『青い花瓶』を間近で目にしたとき、当時の感覚がそのまま蘇ってきた。花瓶はやっぱり斜めに傾いている。子供の時に戻ったみたいでなんだか楽しい気分になった。数十年経っているということが少し切なくもあった。

 美術館のスタッフの方にセザンヌの絵の手法を質問したら、いろいろな説がありますが、と前置きをした上で、後のピカソらが表現したキュビズムの前身となっていること、それはひとつの視点から見たものではなく、移動する複数の視点で描かれたということで説明が可能だということなどを、親切に説明してくれた。
 
 吉田秀和さんの『セザンヌ物語』を大まかにななめ読みしていたおかげでなんとか話についていけた。正確に理解できたとはとても言えないけれど、名画と呼ばれるものが人の心を捉えるのは、理論と思想の深い裏付けがあるからなのだと実感することができた。

 それとともに吉田秀和さんの鋭い観察眼と丁寧な描写力の素晴らしさに改めて感銘を受けた。吉田さんの書かれた文章を思い起こしながら実物の絵に触れることで、深い見識と教養を持ちながらもそれをいったん無にして、真摯に芸術に対峙する吉田さんの姿勢に触れた気がした。いや対峙ではない。自身を透明にしてその対象の奥に素直に入り込んでいくようなことなのかも知れない。

 強く惹かれるからこそ、なぜという気持ちが生まれる。しかし私にはその疑問を突き詰める力がまだまだ足りない。自分を無にして浸るような集中力。それはただ純粋に楽しむということなのだとも思う。