金子光晴著『絶望の精神史』

絶望の精神史 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

絶望の精神史 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

金子光晴著『絶望の精神史』

(引用)
「新しい政府は、民心を堅くする手段として、精神的自由を極度に排し、古い儒教精神と、義理人情を残した。そのことが、今日にいたってまで、まだ、日本人の手足をしばり、「民をして知らしむべからず」の政策を続けているのである。」(引用終わり)

 こうして引用してみると、つい最近の新聞にでも書かれているような言葉である。実は、前半部分のみ、いくつかの言葉を意図的に伏せて引用してみた。その前半部分とは、本当はこう表現されている。

(引用)
「ようやく鎖国は解けたと言っても、明治の新しい政府は、文明開化の列国に伍してゆくために、民心を……」
 
 というのが正しい文章で、これが先へとつながっていく。

 1965年(昭和40年)金子光晴が70歳のころに出した随筆『絶望の精神史』の中の一文。
 1895年(明治28年)に生まれ、1975年に80歳で亡くなった金子光晴は、明治維新の空気を感じ、第一次世界大戦関東大震災、太平洋戦争、そして戦後民主主義を、ヨーロッパ、アジア、日本を巡りながら自ら体感している。その経験から「日本人であるがゆえに背負わされた宿命の根源」を突きとめていくのである。それは「島国日本では自己批判も競争心も生まれず、自分たちが本当に幸せなのか、不幸せなのかがわからなくなり、統治上の宣伝を鵜呑みにして、傲慢不遜な国民や、狂信的な国民が出来上がる」などと手厳しいものだ。そして、そういったことから発生する絶望や悲劇を、今日まで背負ってきた日本人もたくさんいるのではないか、と、自らの悲惨な体験や知人らの死に様を赤裸々に描きつつ分析する。

「日本の孤立した地理的条件と、湿潤な風土がかもしだす、抑圧された精神の異常な発酵」
「近世の旧幕時代にあった義理人情の世界が、今日まで温存されている。それと同時に、人びとが、とうのむかしになくなったとおもっていた、ふるい時代の亡霊までが、意外に人びとの心のすみに残っていて、生活の習慣や好みにからみあうばかりではなく、人びとの迷信深さを利用して、不条理な世界へ追い込んでいる。」

 繰り返して述べるが、金子光晴のこの文章は、昭和40年に発表されたものである。私が生まれるたった2年前だ。当時ですらそういった空気は当たり前のように存在していた。生まれ育った地方では、さらに色濃く残っていたように思う。そして明治から保存され続けているこの亡霊は、金子光晴が亡くなって40年近く経とうとしている今もなお脈々と残っているのを感じている。

「日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望してほしいのだ。」
「絶望だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。」

 教育問題、体罰の問題、そして自殺人口の異常な多さ。一方で、震災被害の救済復興、原発問題も、未だ解決されないまま情報は意図的に伏せられ、風化させていく方向へと進んでいる。様々な問題を感じつつも、思考停止状態に陥り、飼い殺しの状態にすっかり慣らされている。表面的な平和に迎合するのが、物分かりの良い大人のように思わされている。

 一度、自分自身の頭で突き詰めて考えて、絶望した方がいいのかも知れない。そこから初めて次に進めるのだと思う。ぬるま湯に浸かっていることを自覚しながらも、何ら行動のとれない情けない自分を意識せざるを得ない、そんな強い憤りが込められていた、心にくさびを打ちつけてくるような文章であった。