シルヴィ・ギエム『カルメン』

(11月17日 於:東京文化会館

ギエムの圧倒的な存在感。
それはダンサーとして、女として、人間として
といったものを超越した、生まれ出でて来たものの自明の生命力。
あのつま先にまで漲る意志。
私はいったい何に手足を縛られ縮こまって生きているのだろうと
自問してしまった。

彼女が登場した瞬間に、世界がスッとクリアになったような感覚が
忘れられない。
それは彼女の稀有のダンサーとしての神々しさの芯に、
生命体としての突き抜けた逞しさを強く感じたからだ。
生きるとは自らの意志で突き進むことだというエネルギーが
全身からほとばしっていた。
それは何の緩みも迷いも曇りもなく、
心を貫いて来た。
スレンダーで険しい骨格。
それを覆っているのは鍛えられたしなやかな筋肉のみ。
そこに浮かび上がる筋の陰翳すら
完璧な彫刻のように一分の隙もなく、
意志によって刻まれている。

脚の甲は、最高に美しいラインを描く。
それはつま先の先端の細胞に至るまで、
伸ばした脚のその先へさらに遠くへと
向かおうとする意志を持つゆえである。

振付は幾何学的な動きの連続性といったものが多く見られ、、
無駄なものを削ぎ落としたというよりは
人間臭さを抽出したような息遣いと強い鼓動が存在していた。
それらは左右に前後に斜めにと疾走し続ける。
カルメンは生命体として意志のままに生き続けるのだ。

ホセとМ(婚約者ミカエラであり母親である女)だけが
観念の中に捉われて生きているように見えた。
守ろうとし、依存しようとし、支配しようとするもの。
ホセはそこから抜け出すことが出来なかった人間であり、
そういったものから全く自由であったカルメン
理解できなかったのかも知れない。

闘牛場のラストシーン、
ギエムが身に纏った衣裳は、
正面はひざ上だが、後ろは長く裾を引く
鮮やかな真紅のバタ・デ・コーラであった。
それは生きるものの血潮そのものであるとともに、
フラメンコへのオマージュにも思えた。

カルメンは妖艶に男を誘惑する悪女ではない。
それはオペラなどで作り上げられたイメージであり、
彼女は、生きることの困難を身を持って知っており、
そんな社会に捉われずに生き抜こうとする
ジプシーの逞しい人間であった。

振付のマッツ・エックは、
メリメの原作により近いカルメン像を、
この作品で描こうとしたという。
その解釈は踊りからストレートに伝わって来た。
そしてそのカルメンの生き様とシルヴィ・ギエムの存在が
見事にシンクロしていた。
フランスとスペインの血が流れているというギエムに、
なおさらそういったものを感じてしまうのだろうか。

マッツ・エックの振り付けは抽象的でありながら、
地を這うような人間味を持つ。
その中に時おりクラシック・バレエの優美なポーズをちりばめることで、
苦しみの継続に内在する人間の可能性への希望を感じさせてくれる。
その普遍性が、コンテンポラリーの中にあって
多くの人々の心を捉えるのであろう。
マッツ・エックの描くカルメンは自由を生きようとする理想の人間像であった。
そしてそのこころを体現するために、
シルヴィ・ギエムはその際立った身体能力の全てを惜しみなく捧げていた。
だからこそ舞台は生命力に溢れていたのだった。

先日観た、イスラエル・ガルバンやロシオ・モリーナらの、
フラメンコの最前線。
それはバレエの最前線とも確実につながっている。
それぞれの分野の最先端は
進化し続ける生きものとして
互いに影響し合い、
さらに深まっていることを忘れてはならない。