エバ・ジェルバブエナ『雨』

昨日の、エバ・ジェルバブエナ『雨』の感想をとりとめなく。
静かな衝撃でした。
自分自身の見たくない感情も引き摺りだされました。
でもそこに希望も見い出せたのです。
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3月23日(日)新宿文化センター大ホール 

 静かな高揚感が収まらない。それは胸の痛みを伴うものだ。
エバ・ジェルバブエナの『雨』は、無意識に抱いていた苦しみを引き摺り出す。けれど同時にそこに一筋の光も与えてくれる。

 舞台の冒頭、無機質にそして無関心に暗く佇んでいる人々の間に、赤いドレスをまとった少女のようなエバが迷い込む。裸足の姿は純粋で無防備だ。彼女は人間の冷たさにおびえるように床に倒れ込み身体を震わせる。その痛々しい姿は、目を反らしたくなるような異様さと紙一重だ。そしてそれを見ても人々の無関心は変わらない。少女の救いようのない孤独が浮かび上がる。多くの観客が、そこに自らの孤独と重ね合わせることだろう。けれど、エバはさらに踏み込んで語りかけて来る。周りの無機質に佇む人間も、あなた自身の姿ではないかと。観る者は苦みを持ってそれを自覚せざるを得ない。けれども、と、さらに思う。同情したところで、彼女の人生を負うことが出来ただろうか。そして、得体の知れない狂気から距離を取ろうとすることは、ある種の本能とも云えるのではないか。殺伐としたプロローグの短いシーンから、思いもよらない感情が引き出されて愕然とする。自責、諦念、狡猾。複雑に絡む葛藤が露わになっていく。
 
 少女はやがてフラメンコに出会い、生きる強さを身につけながら成長していく。そこでは男女の愛も描かれる。大きなテーブルをはさみ、またはそのテーブルを立てかけ、壁のようにして、男女が相対する。ただ手を伸ばせば相手に触れられるのに、互いに渇望しながらその想いは幾度もすれ違う。それは自由と束縛とのせめぎ合いか、許容と自我を推し量っているのか、それとも大きな愛を抱えながらも与え方を知らないだけなのか。それでも望み続けて行くことで解り合える幸福を感じる時がある。そんな瞬間を信じて人は生きているのではないだろうか。

 エバのサパテアードの細やかな音が耳に残っている。まったく力むことなく、身体の軸から打ち鳴らされる深くクリアな音は、静かな意志を内包している。それは広がるよりも遠くに飛び、ひとりひとりの鼓膜を通して直接問い掛けて来る。あなたはどうなのか、と。

 ラストのソレアは生きることそのものへの渇望だった。身体のラインの流れに連なるように床にしっとりとした曲線を描くバタ・デ・コーラの黒い裾は、エバの心の傷から流れ出た哀しみの血から出来た血だまりのように見えた。あるいは自身の想いの翳でもあるのかも知れない。そしてそれはどこまで行っても自分にまとわり付き、生きている限り分離出来ないもの。その苦悩を自らの人生の中に受け入れているかのように、エバは長い裾をひるがえして踊っていた。それは重い過去を浄化し、未来に向かう力を湧き上がらせる希望に満ちたソレアだった。

 再び最初と同じシーンに戻る。無機質に佇む人々。エバはサパトスを履き、しっかりした足取りでそこから立ち去る。か弱い少女時代を乗り越え成長した彼女は、もう同じ場所ではいられない。新たな孤独を抱いて歩み続けて行く。人はどこまで行っても渇望から逃れられない。だからこそ、前に進める。その手応えこそが幸せなのではないだろうか。どこに到達するのか。それは死の間際でしか解らないことなのだろう。

 もどかしさも、感情の束を解き放ち、一本ずつ手繰っていくとその実体が見えて来る。何を望んでいるのか? 何と闘わなくてはならないのか? エバはフラメンコを通して感情のカオスの正体を明らかにしてくれる。何かを選べば何かが遠のく。

 現代舞踊の大家であったピナ・バウシュは、ダンサーたちにいつも、自分自身の経験から答えを導き出すことを望んでいたという。ピナを尊敬するエバ・ジェルバブエナのフラメンコにも、その思想は明確に息づいていた。漠然とした不安を抱いたまま生きるか、リスクを負ってでも何かを選択して生きるか。答えは自分の中にしかない。