『のりしろ』

「しゃべり過ぎだよ」
友人が苦笑しながら言う。
さりげなくたしなめられたのだった。
すぐにそう気付いて、
恥ずかしくなった。
ずいぶん前からとても楽しみにしていたクラシックコンサートを観た後、
その抑えられない興奮を、一緒にお茶を飲んでいた友人の前で、
夢中になってひとりで語り倒していたのだった。

「演説しているんじゃないんだから」
苦笑いしながら彼女はそう続ける。
「ひとこと言ってくれたらいいの。
 私も感動したこと話したいんだから。
 それを聴いてからまた何か言ってくれたら、
 感想がつながっていくでしょ。
 感動を共有するってそういうことじゃないかなあ」
 
確かに、まるで独演会みたいにしゃべってしまっていた。
一緒にいる人のことがまるで頭に無いようだった。
もちろんそんなつもりはまったくないのだけど、
一方的にまくし立てられる方は堪ったものじゃなかっただろう。
友人は親しい間柄だからこそ冗談を交えて注意してくれたけれど、
呆れられても仕方ない、ひとりよがりな姿だった。

どうしてつい一人で語ってしまうのだろうと、考えてみた。
コンサートの興奮を言葉という形にしてみたいという気持ちがまずある。
そして、その感想をひととおり誰かにに伝えてみたいという欲求もある。
その欲求というのがやっかいで、
情報としてすべてを伝えたいというサービス精神のようなものとともに、
こういう感想を持ったんだよ、とちょっと披露してみたい得意げな気持ちもある。
そう考えながら行き着いたのは、
ひとこと言葉を投げかけて、返ってくる相手の反応を楽しむという余裕が
自分には無かったということだった。
他者に委ねるという柔軟さに欠けていた。
会話の流れを楽しみながら、
想像もしていないような場所に
心が連れて行かれるのが、
不安だったのだとやっと気付いた。
だからまず一方的にしゃべることで、
自分だけの世界観を無意識に押し付けていたのではないか。
けれどそんなものは狭く浅いものに過ぎない。
真にしっかりと自分の世界を確立している人は、
どんなに遠くに流れて行っても、自分を見失わず、
すんなりと元の場所に戻って来られる。
やわらかに他者と自分を行き来しながら、会話の漂流に身を任すことを楽しめる。
そのスリルが対話の醍醐味であり、気持ちのやり取りの美しい流れとなる。
そんな対話の旅は自分自身の世界をさらに豊かにしてくれる。

堀江敏幸さんの小説に出てきた端正な文章が蘇る。

(引用)
   なるほど「のりしろ」か。
   私に最も欠落しているのは、
   おそらく心の「のりしろ」だろう。
   他者のために、仲間のために、
   そして自分自身のために
   余白を取っておく気づかいと辛抱強さが私にはない。
   周囲にたいしていつも「のりしろ」になれる余白……(「いつか王子駅で」より)


凝り固まった自分をアピールされることほど興ざめなことはない。
逆の立場になって想像したらすぐに分かることだった。
他者に対して「のりしろ」になる余裕を持つことが
人と人とを長く深くつなげていってくれるのだと思う。

そういえば、
良いフラメンコには確実にそれがあるということに
また気付いた。