『不和』

『不和』

「仕事にしても家庭にしても、仲間や家族と大きな山を乗り越えて安泰がみえて来たころに、不和や身体の不調というものが必ず訪れる。そしてそれを乗り切ったときに、初めて成功したといえる」
というようなことを、数日前に新聞のコラムで読んで、
ちょっと考えさせられることがあった。
違和感といっていい。
今その記事を探してみたが見当たらないので、
冒頭の言葉は記憶をたどって書いている。
山を乗り越えてホッと一息ついたときに、
やはり見えてくるものが在るのだと思う。
それまでに蓄積された疲労がどっと出てきて、
病につながることもあるだろう。
それと連動しているのかも知れないが、
「不和」というのは、
ちょっと違うような気がしている。
ひとつの集大成のあとの安泰とは円熟であり、
それ自体尊いことだとも思うが、
それはやはり終焉への道筋であり、
先細りしていくものなのではないだろうか。
何かの終りは何かの始まりであるとしたら、
「不和」というのは新たな細胞分裂だと思う。
成熟の果てに朽ち果てて行く流れは美しいが、
新たに生まれる生命体を巻き添えにしてはならない。
永遠に続くものなどない。
「不和」とは、これまでと同じ流れではいられないから
派生してくるもの。
出てきて当然のものだろう。
既成の流れに組み込もうとすることは、
滅びの美学を老醜にしてしまうだろう。
滅んでいくものと、新たな生命体は、
例え同じ源流を持ったことのあるものであっても、
やはり別の道をたどっていくものなのだと思う。
「不和」を障害ととるか、新たな誕生の芽ととるかで、
「成功」の意味するものの可能性は
大きく変わって来るのだろう。