チェーホフと『オ・グランジ・アモール』
「煎じつめればこの世のことは何もかも美しいのであり、美しくないのは生きることの気高い目的や自分の人間的価値を忘れたときの私たちの考えや行為だけ」
先日読んだ、乙川優三郎氏の短編小説集『トワイライト・シャッフル』の『ビア・ジン・コーク』の中に引かれていたチェーホフの言葉にハッとさせられものがあり、ラインを引いた。
この言葉の出典はチェーホフ円熟期の短編『犬を連れた奥さん』(新潮文庫)。日常に滑り込んで来た、結末の見えない愛を描いた作品。当時から人気が高かった一方で、不道徳なものだという批評も少なくなかったという。けれど私は、時は無常でありただ永遠に流れて行くからこそ、人がその人なりの想いを生き抜くということが尊いのだというメッセージがこの物語に込められているのを感じた。
たった数行の言葉の引用は、二つの味わい深い小さな作品を結び付け、チェーホフと乙川氏の世界観を鮮やかに重ね合わせた。その奥行きの深さに気付いたとき、胸が躍るような感動が芽生えた。
また、落ちぶれた男性ジャズピアニストが主人公の『オ・グランジ・アモール』では、このタイトルと同名の名曲が、心憎いような魅力的な使われ方をしていて、どうしても聴きたくなってしまい、実際に聴いてみた。私が聴いたのはカルロス・ジョビンとスタン・ゲッツらの演奏による名盤。ゲッツのテナーサックスは耳元で囁く甘い声のようで、その切ない音にとろけそうになった。
乙川氏は、海外のホテルでの仕事に長年携わっていたという。そういったバックボーンを感じさせる大陸的なおおらかさが、どの作品にも感じられる。先の見えない閉塞感の中にあっても、それを自嘲する余裕と、ほどよい諦念、そして生きているからこそ自然に湧き上がるたくましい希望がある。
時代小説から現代小説へと舞台を移してもまるで違和感を感じさせないのは、こういった経験と感性の奥行きが通底しているからなのだろう。
それにしても、ひとつの作品から世界が広がる体験をするのは、なんと豊かで幸せなことか。久々にその感覚を味わうことができた。
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