映画『流れる』

映画『流れる』を観ました。1956年(昭和31年)の作品。

原作は幸田文の同名の小説。
柳橋置屋に住み込みの女中として働いたという実際の体験をもとにして描かれ、
56年に刊行された作品が、その同じ年に映画化されたものです。

小説は、原作者幸田文の分身である女中の視点で書かれていますが、
この映画では、もっと客観的に、
そして置屋「つたの屋」の女将を中心に描かれているように感じました。

だからこの映像では当時の花街界隈の生活をリアルに知ることが出来る。
内廊下でつながる簡素な間取り。
食卓や布団など置くものによってパブリックな場となり私的な場となる
すっきりとした畳の部屋。
障子を通してくる薄明り。
深く襟を抜く、粋筋の女たちの着付け。
座敷に上がる時はもちろんだけれど
普段の着物を着る時でさえも、きりりとした緊張感があり、
その面差しに色気が漂う。
なによりも、彼女たちの粋な話し言葉に惹かれました。
無駄なことは言わない気風の良い語り口。
現代のように、マスメディアに毒されていない、
自分たちの生きる場所に誇りを持った話し方に聴き惚れます。

今よりもずっと閉塞感があったであろう時代、そしてその暮らしの中で、
それだからこそ、「選択肢」という馬鹿げた幻想に捉われることなく、
自分の道に矜持を持って生きることが出来たのだと思います。

置屋は共同生活の場ではあるけれど、それは家族的というよりも、
働く女たちひとりひとりがプライドを持ち、シェアして生きている場。
母と娘すら一対一の矜持を持って接していた。
誰一人、自分の殻に閉じこもるようなことは無く、
かといって、自我をさらけ出すような幼稚なマネはせず、
自分で築いたフォーマルな鎧によって、
さまざまに顔を使い分ける賢さを持ち、
生き難い、狭い世界を泳ぎ渡っていく。
よりしたたかな者が勝つということは、どの世界も変わらない。
けれど例えそこで後れを取ったとしても、
悔しさと悲しさを胸に収めて、それでもしなやかに生き残ろうとしていく。
「粋」とは、こういうところから生まれて来るのだと知りました。

つたの屋の女将を演じていた山田五十鈴が素晴らしい。
弱さを秘めながらも、美貌と芸で生き延びてきたという
芸者魂が滲む演技でした。

ラストで、女将が唄いながら三味線を弾くシーンがあります。
「は」という合いの手を入れる間合いとその色気にゾクゾクしました。

実際に、山田五十鈴は、父親が新派の人気女形、母親が曽根崎新地の人気芸者という 芸人家族の出であり、
幼少の頃から芸事を叩き込まれ、
10歳の頃には家計を支えるために年長の芸妓に清元を教えていたほどであったそうです。

苦労が無ければ粋は身に付かないものなのかも知れません。

田中絹代杉村春子高峰秀子岡田茉莉子
往年の名女優のさりげなく巧みな芸による競演を堪能できた名作でした。

映画の冒頭と最後に、隅田川の穏やかな情景が映し出されます。
ああ水上バスはこの時代から行き交っていたのだなと思いつつ
柔らかにきらめく水面を目にしているうちに
ふいに女の一生と川の流れが重なっていきました。