岡本かの子『雛妓』

岡本かの子 (ちくま日本文学)

岡本かの子 (ちくま日本文学)

 岡本かの子「雛妓」読了。
 作品集の中の一編なのだが、最近は読むのに本当に時間が掛かるようになった。若い頃はナナメ読みして筋が分かれば読んだ気になっていたが、このごろは、じっくりと作品を読むことで作者に少しでも近づきたい、という欲求が出てきている。行間に滲むものまで読み取りたいと思う。集中してまとめて読む時間が取れないのが残念だったり悔しかったりするのだが、この歳になれば読書に割く時間などそんなものと開き直って、たとえほんの数行ずつでも、心に留まる表現があれば、噛み締めるようにそこに描かれた世界に入り込んでみることにしている。焦ることはない。長生きすればいい。
 
「雛妓」には、かの子自身が同じ名前で登場する。夫の一平や息子の太郎も、少し違えた名前で出てくる。実際にあったエピソードをもとに書かれたもののように感じられた。
 そこには、大地主であった、かの子の実家の家系も描かれていた。その中には芸術に対する深い造詣を持ちながらも、代々続いてきた家に飲み込まれ、世に知られることなく齢だけ取っていった先祖たちの鬱屈した家霊があった。
 
 かの子は、ただ無邪気に大胆で奇抜な行動を重ねたのでは無かったのだと知った。美しいものを求めて止まない精神と、それを抑え込もうとする、脈々と続く家の重み、その両方が、家霊となって自身の血に流れていることを自覚していた。だから、その相反する呪縛を突き破って、芸術の高みを目指す決心をした。
 かの子の芸術家としての可能性を、夫の一平は先を歩む者としての深い懐で認めていたのだと思う。かの子の一見常識を逸脱した行動(例えば、恋人を自宅に引き入れて一緒に暮らすようなこと)は、一平にとっては想定内のことに過ぎなかったのかも知れない。何者にも捉われずに奔放に生きることが、そのままのびやかに創作に反映される。それは一平自身も分かっていたことに違いない。

「誰だか言ったよ。日本橋の真中で、裸で大の字になる覚悟がなけりゃ小説は書けないと。おまえ、それでもいいか」
「そのとき、パパさえ傍にいてくれれば」
「俺はいてやる、よし、やりなさい」

 作中のかの子と夫の会話に、芸術家同士の厳しくも愛のあるパートナーシップが滲む。